6月2010

長久手古戦場跡に近いところで研修

2010年6月21日

6月21日の日記
長久手古戦場跡に近いところで研修をしました。
その昔、徳川家康がこの近くに居たんだ・・・と思うと不思議な感じがします。
織田信長が家臣の明智光秀に本能寺で討たれた後の跡目相続で、孫を押す秀吉と次男信雄を押す家康が戦いとなりました。
秀吉が犬山に、家康が小牧に陣をしいていましたが、秀吉の別働隊が家康の本拠地である岡崎に侵攻したことにより、長久手で両軍が戦うこととなりました。
長久手では家康が勝利したものの、信雄が秀吉の和睦申し入れを受け入れてしまったため、この戦は幕を閉じることになりました。
結果的に秀吉が天下をとり、家康は五大老の一人ではありますが格別な地位を得ました。
余談ですが、本能寺で倒れた信長の首は、黒人の家来が持って逃げたといわれています。
もちろん歴史学者の先生方に認められた説ではないですが、かなりいい線をいっているのではないか。。。と思い私はこの説を押しています。
今日の研修では、いつも元気な浅井さんがちょっと元気がなかった感じがしました。
疲れているのかな?
浅井さんはとても働き者です。
素晴らしいことは、お子様達が働き出してから浅井さんの口座に、自主的自発的にお金を振り込んでくれていたそうです。
それがある程度溜まったので家を改装して、お義父様と同居して面倒をみているとのこと。
リーダーである浅井さんが率先垂範でトイレ掃除をしているし、お義父様の話し相手もきちんとしているし、立派ですね。
これからもきっと良いことがあると思います。
明日は、桶狭間古戦場跡近くで研修です。
古戦場めぐりをしているわけではありません(笑)

人間力向上セミナーを東京で

2010年6月20日

6月20日の日記
今日は武士道協会の人間力向上セミナーを東京で開催しました。
たくさんの方がお休みの最中いらしてくださって、本当に嬉しかったです。
ブレーンストーミングで『ウサギと亀』を挙げて話し合いをして頂きました。
これの狙いは、多くの視点を持つこと、そして、他者の立ち場になり切って
理解をするように努力することの大切さを学ぶことでなのです。
他者の立場を理解したり、なりきることは、
またこれは、ウサギと亀でなくてもいいのです。
さるかに合戦でも、桃太郎でも何でもいいのです。
要は、他者の立場を理解できる柔軟さをもつことの大切さ、
これが惻隠の情になるわけですね。
枠から入る事をせずに、心を大切にする事で、現代武士道を確立していきたいのです。
それぞれの武士道論を持っていて、それが何人か集まると、
新たにその場に適した武士道論が出てくること。
これが大切だと思っています。
自分の色をしっかり持っていながら、グレーゾーンもにこやかに歩ける柔軟さが欲しいのです。
固定概念の強い武士道では、若い世代に受け入れられないでしょう。
今回は色々な世代の方々がご参加くださり、本当に嬉しかったです。

惻隠の情

2010年6月18日

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武士道ワンポイントレッスン
10回目のテーマは「惻隠の情」
他者(ひと)の悲しみを自分のこととして受け止め、共に悲しみを分かち合える心。
そして、他者(ひと)の喜びを自分のこととして受け止め、共に喜びを分かち合える心。
文字で読むと簡単そうで、また、自分が幸せな時はとても簡単にできそうなことです。
しかし、自分が幸せではないとき、或いは、望みがなかなか叶わずにいるときなどに、この2つの心を持ち続けることができるでしょうか?
惻隠の情は、いかなる状態のときであっても、持つことに意義があり、そうでなければ惻隠の情があるとは言えないのです。
自分が幸せな時は、他者の不幸をいかにも気の毒に感じて何かをしてあげたいと思うでしょう。
しかし、自分が不幸な時に他者の不幸を知ったとしたら、心の奥底では安心感が広がるはずです。
それが、人間なんです。
そして、自分が不幸な時に、他者の幸福を知ったとしたら、心の奥底では不安と苛立ちが起き、妬みや恨みの感情が沸き起こるはずです。
そう、それが人間なんです。
誰もが間違いなくこの感情を持ってしまいます。
だからこそ、私たちは肉体を持った人間として生を受けて、己の心を大きく広くすることを目的として、高尚になろうと必死に生きているのです。
惻隠の情は、人間にしかない心のあり方です。
でも、人間には難しくて、なかなかこの心境になれずにもがいています。
だから、善良な人か悪人か、できる人かできない人か、を知るには、逆境を共にすると一番わかりやすいと言うわけです。
「善良な人・悪人」と書いて「良い人・悪い人(嫌な人)」と書かなかったのには理由があります。
良い人とは、みんな自分にとって都合の良い人のことを「良い人」と勘違いします。
そして、自分にとって都合の悪い人を「悪い人(嫌な人)」といいます。
悪人でも、自分のして欲しいことをしてくれて、自分を褒め称えてくれれば、良い人になってしまうものなのです。
逆に、自分にとって必要なことを必死に説いてくれている人は、嫌なことを言うからうっとうしい嫌な人になってしまい、悪口や陰口の対象になってしまいます。
最近は、良い人になろう、良い子にならなければ、と思う人が多いように感じます。
でも、良い人になるということは、この様に誰かにとって都合の良い人になろうとしていることであり、決して世の中の役に立つ良い人になろうとしているのではありません。
本当に良い人になりたければ、惻隠の情を身に着けることです。
しかし、自分が望みの叶わない辛いときに、友人の幸せを一緒に喜べる真の優しさを身に着けることは、並大抵の努力や精神力では到達できるものではありません。
だからこそ尊いのです。
もし今、私はできている、と思った方がいらしたら、その方こそ己を知るところから始めなければ、他者の気持ちは全く読み取れないと思います。
人間は己を知ることが一番難しいのです。
まだまだだ・・・と思った方、その方向で進んで良いと思います。
過信せずに、地道に努力することが、必ず生まれてきた目標と目的を果たすに必要なことです。
そして、人間である以上、惻隠の情で人と接することができるようになることは至難の業でしょう。
ほんの一握りの人しか、惻隠の情で他者と接している人はいないでしょう。
でも、そうなろうと努力することはできるし、努力することで近づくことはできます。
それは、きっと大きなうねりとなって、日本という国を良くしていくことでしょう。
大切なことは、幸せである時を基準とせずに、不幸である時を基準として、惻隠の情があるかないかを考えることで正しい判断ができます。
またそうすることで、当たり前がなくなり感謝の気持ちが育ち、より成長します。

普通

2010年6月17日

武士道ワンポイントレッスン
九回目のテーマは「普通」
普通というと、なんとなく良くもなく悪くもなく・・・と思うのではないでしょうか?
でも、字を調べると全く違うことがわかります。
“普” は「あまねく」という意味です。
そして、「あまねく」とは “もれなくすべてに及んでいる” という意味です。
“通” は「精通していること」「全体に行き渡る」「 物事を広く知っている」という意味があります。
“普通” とは、「もれなくすべてに通じている」 ということになるのです。
だから軽く、「うちの子は普通でいいわ」なんて言う方が良くいらっしゃいますが、すごいことをおっしゃっているわけです。
「うちの子は、もれなく総てに通じている位がいいわ」と言っているようなものだからです。
母国語となると言葉を無意識に使うことが多くなります。
また、使う人によって、その単語の意味を違ってとらえていることも多々あります。
「けっこうです」 と言われたとき、これを「いいですよ」と「いりません」のどちらにとりますか?
この単語だけでは推し量ることはできず、発言した人の表情や前後の言葉によって判断しているはずです。
これが日本語なんですね。
感情を読み取らないと意味を取り違えてしまうのです。
「普通でいい」のではなく、「普通だったらいい」と使ったら良いのですが、一般的に「普通だったらいいわ」と使ったら、「どこか足りないの?」とか「そんなに(程度が)悪いの?」などと誤解されそうですね。
ただ、正しい意味をわかった上で、一般的に流通している意味での普通を使うことで、日本語特有の言霊のメリットを得ることができると思います。
そして、普通であることに感謝をして、普通にできない人の助けをしてあげることができたら、きっと文字の持っている本当の意味での普通になれると思います。
みんなで普通になりましょう。

2010年6月16日

武士道ワンポイントレッスン
八回目のテーマは「国」
国とは何か?
国は私たちを守ってくれる親と同じ存在である。
でも、国があって当たり前の環境で生まれてわれわれ日本人は、国に感謝をしたことがあるでしょうか?
政治家の方ですら、日本を悪く言うのが当たり前になっている昨今、パスポートを日本国に申請することを躊躇してほしいと思います。
つまり、親の悪口を言いながら、親にお金をせびっているのと同じだからです。
親孝行をしなさい、ということは悪いことでしょうか?
それなのに、愛国心を持ちなさい、というと「右翼? 怖い!」と言うのは何故なのでしょう?
好きな異性に「愛している」というのは当たり前だと思っているでしょうが、それはほとんどの場合が「愛」ではなく「恋してる」だけでしょう。
愛しているとは、相手のすべてを赦し受け入れて、それでいて相手の幸せを祈ることです。
恋しているとは、自分が相手のどこか一部(顔、スタイル、お金、学歴、欲しい言葉、・・・)に魅かれて、胸がキューンとしていることです。
愛国心とは、国を恋しく思えと言っているのではなく、国が安泰であるように、国が発展するように、国民一人ひとりが考えながら行為行動をするということです。
自分さえよければ良いという判断をしないということなのです。
今まで、あまりにも自分の損得で国を動かしてきた政治家が多くいました。
また「国なんかどうでもいいんだよ、うちの会社さえよくなれば」という経営者や経営陣が多くいました。
そして、一般国民の中では親殺しが起き、子殺しが多発しています。
よって、愛国心が希薄化して当然なのかもしれません。
だからこそ、今、改めて親孝行、愛国心を考え直なければならないと思うのです。
今、国民の90%が日本という国を不安に感じていると答えているそうです。
親を信じられないと言っているのと同じです。
これでは良くなる方がおかしいと思います。
国は親と同じなのだから、われわれ国民一人ひとりが自分の生き方を考え直さなければ国は良くなりません。
不安だと思うなら、自分がどうすればいいのかを一人一人が考えましょう。
そうすれば、自然と子供を大切にする気持ちが芽生え、恐ろしい事件も当然減ると思います。
日本という国のありがたさは、外国に出たときにわかります。
親孝行したい時に親はなしというように、国が大事だと思った時には・・・とならないように、今から意識を高めていきましょう。

◎相談◎『自分育てにハマり過ぎて、子育てを忘れてしまう…』

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相談コーナー 武士道精神で『悩みに答える!』 第四回
【相談】
私は自分育てにハマり過ぎて、子育てを忘れてしまう時があります。バランス良く生きる為に、本多さんが心掛けていらっしゃる事があればアドバイスをお願いします。
【回答】
一言で言うと、それが正しいことなら「背を見て育つ」とい格言もありますから、そのまま続けていて宜しいのではないでしょうか?
真似られて困るようなことさえしなければ良いと思います。
たとえばパチンコにはまってしまったとか、ゲームにはまってしまったというのではないのですから。
一番良くない結果を招くことは、「こうでなければならない」「ああでなければならない」と決め込んで、自分をその枠をはめ込んでしまい、いつも他者の目線で自分を推し量ることではないでしょうか。
そうなると、必ず夫の行為行動にも、子供の行為行動にも同じ枠で推し量り、はめ込んでしまうことになります。
それは、冷静そうに見えて、冷静なのではなく、軌道を外れないようにしようとか、失敗をしないようにしようという恐れの方が強く出ているように思います。
それよりも、限界を決めずにできる限り成長したいという思いを大切にした方が結果も良くなると思います。
想像とは夢を持つことで、創造はその夢を具現化して実現することです。
このどちらの「そうぞう」の力も子供に欲しい力ですよね。
要は、他人目線を基準にした子育てだと、想像力は育ちませんし、創造することすらおぼつきません。
そのような面白みのない子供に育てるくらいなら、母親が信念をもって父親と志を同じくして邁進する姿を見せていた方が、よほど子供にとって活学となるのではないでしょうか?
必要なことは、「ありがとう、応援してくれて」と子供の努力に対して報いるこだと思います。
自分のやりたいことを我慢して子供のためにと思って何かをした場合、人間なら必ず、
「これだけ子供のためにしているのに・・・」
といった感情が起きるはずです。それよりも、
「本当に応援してくれてありがとう、あなたが応援してくれるから幸せよ」
と言われて育った方が子供の精神衛生上良いと思います。
たとえ幼くても、自分が人の役に立っているんだ!!と自覚しながら育てば自信がつきます。
そして、人の役に立つことは嬉しいことだという経験も積めて、心を育むことができます。
ご自身のしたいことをしながら子供の心も育つなんて、一石二鳥ではないですか。
いかがでしょうか?
まずはご自身が自信を持って子育てをしてください。
大丈夫です、間違ったことをしていないのですから。

差別

2010年6月15日

『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第五回目のテーマは「差別」
「外人がね・・・」
「それって差別用語ですよ」
「え?なんで?」
「知りませんけど、そう学校で習いました」
「あなたの学校の先生は***だったの?」
「わかりませんけど・・・」
「外人って差別用語の訳ないじゃない」
「え・・・・ただ外国人ならいいって言われました」
「どうして?」
「知りませんけど・・・なんででしょう」
「分からないで言ってるの?」
「学校で教わったから。ああそうそう、韓国人も中国人も差別用語だって聞きました」
「信じられない・・・アンビリーバボー!!」
外人が差別用語って誰が言い出したの?
日本語は字が意味を語っています。
だから、「外人」とは「そとのひと」「ほかのひと」という意味です。
『外』という字は「がい」「そと」「ほか」・・・など読み方があります。
「外国人」は「ほかの国の人」という意味で、国が主体。
日本以外の国に所属する人といっているわけです。
しかし、「外人」は「日本人以外の人(日本人ではない人)」という意味で、人が主体。
何が差別なの?
人を主に持ってきた外人が何故差別用語なの?
韓国人、中国人も差別用語とは何故なの?
韓国の人、中国の人って言わなきゃいけないってどういうこと?
なんで、韓国の人、中国の人って言わないと差別なの?
かえって意識する事の方が差別ではないのかしら?
アメリカ人とかイギリス人っていうじゃない、アメリカの人って言う? イギリスの人って言う?
いえいえ、言いいませんよ。
アメリカ人は自国をステイツって言います。
でも、私達は絶対そうは呼んであげないですよね。
これが、アメリカではなかったら、ステイツと呼ばないと言って差別だって騒ぐのかしら?
今や日本人で韓国を身近に感じると答えた人は50%
韓国人で日本を身近に感じると答えたのは42%
こういう数字が出ているのに、今さら外人、韓国人、中国人が差別用語とは・・・
日本語の持つ意味、音の響きなど、日本語で育った人にしかわからないものもあります。
それを考えたら、外人を差別用語と最初に言った人が、差別意識が高いのではないでしょうか?
個を大切にすることを差別ととらえているのではないでしょうか?
差別と個を大切にすることは違います。
私は地球は一つと言うのは、それぞれの個を大切にするからこそ一つになれると思うのです。
私たちが親から生まれてきたから、親と同じだと言われても反発するのと同じです。
個を大切にしないで地球を一つにしたら、それこそ弱肉強食で武力の強い国の人に同化しなければならなくなりますよ。
文化も文明もなくなり、総て均一化してしまい、美術も芸術もどこへ行ってもみな同じになってしまう。
こんなつまらない地球にしたら、地球の創造主はどう思うかしら?
もっと日本語の奥深さを学んでから、差別と叫んで欲しいですね。
本当の差別は、意識をする事だと私は思っています。
意識をしなければ差別など起きないのですから。
私は個を大切にして、地球に住む者達が、みんなで協力し合い、地球にとってよい存在となることが大切だ思います。
平和を叫ぶのは、平和ではないからです。
平和なら、改めて誰も平和は素晴らしいなどと騒ぎはしませんから。
真に公平で差別を意識をしない社会を作るには、お互いが自分と違う者を認め、敬う気持ちを持たなければなりません。
だから、差別だと騒ぐなら、みんなが自分以外の人、自分の仲間と違う人を認めて敬って大切にすることから始める必要があります。
差別は自分以外の人を認めず、自分が一番正しいし素晴らしいと思い、自分以外の人を蔑むから起きる意識です。
いつも、自分以外の人を称えて、違いを楽しみ、差異を大切にすれば、差別意識などなくなると思います。
私は日本人だから、日本人の友達が一番沢山います。
みんな素晴らしい人たちです。
でも私は北京や上海を故郷とする中国人の友達も沢山います。
みんな素晴らしい人たちです。
私は台湾人にも韓国人にも知り合いがいます。
みんな素晴らしい人たちです。
私はみんな大好きです。
それぞれ所属先が違うだけでしょう。
パナソニックの人とソニーの人が売上を廻って競争をします。
でもお互いどこに勤めているか知らないで知り合ったら、きっとすごく仲良しになります。
でも所属先を知ったとたんに、あれは言えない、これは言えないとなります。
これが違いを意識する始まりです。
だから、国が違うことだって、言葉が通じないから余計に差を感じるだけです。
これを、金星で、金星人と一緒に日本人が中国人と会ったら、それは母体が地球で一緒ということから急に仲良くなります。
それなのに、地球にいるときはへんな意識をして、仲良くなるチャンスを逸している。
本当にもったいないですね。
お互い自分以外の人を認めたら、差別なんてなくなり、世界が広がるから本当に楽しいですよ。

育てる・教育

2010年6月14日

武士道ワンポイントレッスン
七回目のテーマは「育てる・教育」
人を育てるっていうことは、薄いティッシュペーパーを一枚一枚丹念に重ねて厚みをもたせて行くような作業と同じだと塩川先生が以前理事会で仰った事がありました。
頭の中では理解していても、イザ実践となると一枚一枚重ねている内に、
『こんなにやっているのに!! 何で分かってくれないの??』
などと思うことも多々あるでしょうね。
でも、思った瞬間に、今まで重ねたティッシュペーパーが全部吹き飛んで、なくなってしまうんです。
先日のニュースでも、母親がオムツをしている1歳の赤ちゃんに熱湯をかけて、皮膚がめくれるほどの火傷を負わせたとありました。
間違えて熱湯のシャワーをかけてしまったと言っているとのことですけど、それなら母親の手にはかからなかったの?
辻褄が泡なすぎるし、不注意なら程が有ると思います。
ティッシュペーパーを箱ごと積み上げるような家庭教育を受けてきた母親なのかしら?
そうなると、祖父母が悪いわけで、その祖父母も曾祖父母の育て方が悪かったということになって・・・
切りがないじゃないですか。
切りが無いと思ったら、気づいた人から始めるという運命を担ってきたんだ、きっとご褒美は多きいと思って、“選ばれし人” となったことに自信を持ちましょう。
人を育てるという “人” の中には自分も入っています。
親の育て方が悪いと思った人が、18歳になっていたら、
気付いた人が始めなければならないから、まず自分を育てることから始めないとならないというわけです。
何でも人のせいにしている時は楽なんです。
でも楽をしていたら良くならないわけで、何でも苦労や辛さの中に学びがあり、それを習得すると成長という成果を戴けるんです。
成長すると、今まで苦しかった事が苦しく感じなくなる。
それは、小さい時に掛け算九九を覚えるのに苦労して、八の段なんて何でやらなきゃいけないんだろう・・・なんてボヤキながら勉強したことを思い出せば分かります。
掛け算を覚えておいて良かったですよね、今考えると。
当時は、嫌だい嫌だと思ったテストも、今考えると、そのお蔭で恥をかかずに済んでいるということです。
それは、勉強だけでなく生活習慣など総てに言えることなんです。
だから、育てるということはは、自分を育てる事も入っていて、とっても大事な事なんです。
自分が育てば、間違いなく周囲が育ちます。
先ずは薄紙を一枚一枚丹念に積み重ねるように、生き方を考えて、教育を考えていきませんか。
きっと世界が良くなると思います。
・人に迷惑をかけない
・人の嫌がることはしない
・自分が我慢すればよい事なら喜んで受けようと思う
・人の嫌がる仕事は自分が引き受けよう
など、最近は死語になってしまった言葉を思い出して、実践していきましょう。
教育者にとって、
①先ず自分が変わること
②気長に構えて怒らない
③感情的にならない
④必要な事を嫌われると思っても伝えていく
⑤大好きといいながら注意をしていく
⑥教えている人の幸せをいつも考えている
この心構えが必要ですね。

陰陽のバランス

2010年6月13日

6月13日の日記
梅雨だと太陽が昇ってサンサンと日がさしていると嬉しくなりますね。
でも、雨が降らないといいと思うけど、雨が降らないと作物や飲料水がなくて困ります。
これって、良いことと悪いことは必ず隣り合わせってことですね。
パンプスを履いて外を歩くときは、雨など降らなければいいと思うけど、雨が降らずに農作物が高騰しても困ると思うし・・・。
人間って贅沢なんですね。
これが陰陽のバランスなんですね。
バランスの取れない生活は、必ず破綻するといいますから。
つまり、嫌なことを経験することで、その結果がよりよくなるということなんですね。
とかく嫌なことからは逃げたくなってしまいますが、それを受け入れて、挑戦することによって良い生活が得られるということなんです。
嫌な雨の日があるから、天気の良い日がありがたく感じ、そして、農作物も安く買える。
この不思議な陰陽のバランスは、太陽と月、男と女、昼と夜、など色々な面にあります。
これからは、陰の良さも考えながら行けば、より生活が充実しますね。
日本は雨が降るときは降りっ放しだけど、南半球は雨がスコールのように強かったのに太陽がさす間があったり、また、青空の中に雨雲が点在していたり。
当たり前がないということも理解できますね。
当たり前になったとき、人間は不幸が始まるように思います。
やはり、いえることは毎日当たり前のことにも感謝することですね。

革命・維新

『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第四回目のテーマは「革命・維新」
私の知り合いの先生で堀内保丸先生がいらっしゃいます。
もう82歳だったでしょうか。加茂一族の末裔です。
加茂一族はあの八咫烏です。
高校教師をしていた堀内先生の体験でとても胸を打つものがありました。
東大を目指している高校生が堀内先生に
「先生、最近勉強するのがばからしくなりました」
というのですね。
理由は皇太子様はあの様に恵まれているのに、自分は遮二無二努力をしなければ幸せを得られない、不公平だと言うのです。
だから、スタート地点が平等であるべきだというのですね。
そこで堀内先生は生徒に、親の七光りがあって、出発点から差が生じているのは不公平だと言うのか、それで幸福をつかむのは卑怯だということか、と確認します。
生徒がそうだと肯定すると、堀内先生はその生徒にあることを要求します。
それは、親から貰い受けたものは七光りや財産だけでなく、生まれつき目が見えないで生まれてくる人もいる。
スタート地点が同じでなければ不公平だと言うなら、その人の為に自分の眼を抜き出して、その人と同じスタートラインに並んであげられるかといいます。
そして、将来財産ができても子どもには残さずに寄付をするか、と聞きました。
生徒は答えられなかったんです。
堀内先生は、真の革命とは、富や権力の譲渡を迫るものではなく、人間を富や権力の誘惑から解放することであるとおっしゃっているのです。
こういうことが書かれた本が絶版になってしまっていて、復刻版が出版されないのですね。
本当に残念に思います。
これらのことは今の時代の先生の勉強にもなり、そのまま世の中に通用する教えだと思います。
教師の資格更新では、武士道(徳育)を入れて欲しいな・・・と思うのはわたしだけでしょうか?
明治維新だって、結局は富と権力のすげ替えといってしまえばそれまでというところもありました。
だって本当に無欲で闘った人は、日本を動かすこともなくみんな死んでしまったのですもの。
坂本龍馬だって、西郷隆盛だって、吉田松陰だって、佐久間象山だって、みんなみんな死んでしまいました。
この人たちが日本を動かしていたら、どうなっていたのかしら? と考えるだけでも胸が躍ります。
本当に平成維新は、人間を富と権力の誘惑から解放するものであってほしいです。
ここに気付いた人が次のリーダーにならなければ、どれだけ人が入れ替わっても、きっと世の中はあまり変わらないように思います。
どの時代も、富に目がくらみ権力にあぐらをかき始めると、世の中が乱れてきます。
勤倹質朴であることが、良い世の中にする絶対条件だと私は確信しています。
贅沢をしたい自分の心と戦い、同じ地球に生きる人で食べるものすらなくて苦しんでいる人に、少しでも分け与えたいと思って欲しいと思います。
みんな自分の余裕の部分でしか助けようとしない昨今。
工面をして助ける事の美しさや素晴らしさを味わって欲しいと思いました。
きっと、飛行機のファーストクラスの一座席をぬいぐるみの為キープするようなことを思いつくから、詐欺も思いついてしまったのでしょう。
それよりも、同じ地球で困っている人を救うためにそのお金を使っていたら、もっと違う形で世の中を風靡(ふうび)していたように思います。
欲の持ち方は本当に誤ると怖いです。

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