訴訟

2010年6月5日

『私も一言物申す』 世の中に一言!! 一言私にも言わせて(^。^)
第三回目のテーマは「訴訟」
最近はアメリカナイズして簡単に訴訟をする人が増えた様に思います。
離婚問題ですら、当人同士が話し合いもしないうちに訴える夫婦も出てきました。
自力で考えて、譲歩しあって、和を保とうという考えがなくなって来たように思います。
簡単に訴訟が出来るようになると、不思議と人間に注意力や謙虚さが欠乏してきます。
そして、何かが起きるとすぐ人のせいにするようになります。
だから益々揉め事が増えてしまうのです。
最近、学校で子供同士の喧嘩で鼻血を出した子の親が、喧嘩相手の家を訴えたとか。
これでは子供に調和したり協調したりする力が育たなくなり、結果として大人になって自分の子供が人間関係が上手くいかずに悩み苦しむ結果を生むことに気づいていないのでしょう。
北海道のお寺で住職さんの若松お上人様から説法を拝聴しました。
公園の滑り台で遊んでいた子供が、滑り台の頂上から滑る時に坂にかかっていた鉄のアーチに頭をぶつけて怪我をしてしまったそうです。
その子の親はすぐに行政を訴えました。
色々取調べがあり、設計者にも事情聴取がありました。
その設計者は「わざと怪我をするようになっています」と言ったのだそうです。
つまり、注意をしないと痛い目に遭うよということを小さな怪我で小さい時から教えていくというのです。
私はこの話をから聞いて成るほどと思いました。
今育児中の若い両親に、絶対的に必要な知識であり、子供には必要な体験だと思いました。
この訴訟の結果は残念ながら知りませんが、裁判官が人としての生き方を理解している方だったらいいなと思うばかりです。
訴訟をするようになると理論ばかりが達者になり、善悪よりも言い負かした者が正しいとなることで、ならぬものはならぬのですという当たり前の感覚に障害が生じます。
戦争というのは、正しい国が勝つのではありません。
力の強い国が勝つのです。パワーポリティックス、つまり、軍事力にものをいわせた権力政治がまかり通っています。
喧嘩も正しい善い人が勝つのではなく、力の強い人が勝つのです。
そして、訴訟はいかに自分を正当化するかが勝負なのです。
つまり、反省などしていたら負けてしまうのです。
生きていく上で最も大切な『反省』が、勝つためには邪魔な存在になってしまうのです。
『反省』をするから、怒りも静まり、同じ過ちをしないで済むようになります。
結果として、自己主張が盛んになり、相手への配慮がなくなりますから、気付きや真意を汲み取る力が育たなってしまうのです。
最近は消費者が怪我をしたら、メーカーが訴えられて責任を問われることになるから、説明書にこんな事まで書かないといけないの? と呆れるようなことまで記載されているのを度々見かけ ます。
これではマニュアルがないと生きられない人間が育ってしまうわ・・・と懸念し、心配になってしまいます。
人間の目は自分以外を見るためについています。
だからこそ、心の目は自分の内面を見つめるようになっているのです。
そうしなければ上手く心身のバランスが取れないのです。
それなのに、何でもかんでも訴訟にもっていくと、自分を見つめる目が育たなくなり、他者を批判することが当たり前になってしまいます。
そうすると、被害者意識が高くなり、精神的にバランスが崩れて、かえって心の病になりやすいように思います。
訴訟も必要な時があるでしょう。
闇雲に訴訟反対を唱えているのではありません。
ただ、そのくらい自分達で話し合って解決したら? と思う喧嘩まで訴えるのはどうかと思います。
健全な楽しく幸せな毎日を送りたければ、訴訟は控え目にした方が良いのではないでしょうか。

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