「楠木正成に見る武士道」  講演者:今入 直樹

第3回シン武士道懇話会

テーマ:「楠木正成に見る武士道」講演者:今入 直樹

開催日時:令和8年1月18日(午後3時~午後5時)

はじめに

一昨年、 江戸時代の国学者平田篤胤( 1776-1843 年) に関する新書『 平田篤胤交響する死者・ 生者・ 神々』( 吉田麻子著) を読んだ。 平田篤胤は秋田藩の出身であり、我々秋田県人にとって地元の著名人である。 私は以前、秋田市にある篤胤の墓に詣でたことがある。 木々が鬱蒼と生い茂る森の中に墓はひっそりと建っていた。 同じ国学の四大人( しうし) である賀茂真淵( 1697-1769 年) や本居宣長( 1730-1801 年) のような記念館はない。 それは平田国学が国粋主義につながり、 日本の対外戦争に結びついたという見方が一般化していることが原因かもしれない。 哲学者和辻哲郎( 1889-1960 年) は「 この篤胤の性行にも、 思想内容にも、きわめて濃厚に変質者を思わせるものがあるが、 変質者であることは狂信を伝播するにはかえって都合がよかったであろう。やがてこの狂信的国粋主義も勤王運動に結びつき、 幕府倒壊の一つの力となったのではあるが、しかしそれは狂信であったがために、 非常に大きい害悪の根として残ったのである。」( 『 日本倫理思想史』) と述べている。 ただ、 私は『 平田篤胤 交響する死者・ 生者・ 神々』 を読んで、 愛妻家で、 男気のある平田篤胤という人間が単純に好きになった。 特に、 自らに累が及ぶ恐れがあるにもかかわらず、 大塩平八郎の乱(1837 年) に呼応し、飢饉に苦しむ民衆のために蜂起した門人生田万( よろず)(1801-1837 年) に対する言葉は温かい。

国学者平田篤胤が師とする本居宣長は「 漢意( からごころ)」 に対して「大和心」 を提唱したが、 篤胤の「 大和心」 は「 敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」 と詠んだ宣長のそれとは違っている。

篤胤は「大和心」 についてこう述べる。

御国人はおのづからに武く正しく、直に生まれつく。 是を大和心とも御国魂ともいふでござる。(『古道大意』)

篤胤の述べる「武く正しく、 直」 である「 大和心」 は私が考える「武士道」と同義である。 もちろん、 篤胤の「 大和心」 と「武士道」 をイコールにしてしまうのはきわめて乱暴ではある。しかし、 私は「武士道」 に「 武」 だけではなく、「 正」と「直」という倫理性を見る。

単に「 武士」 ではなく「武士道」を考える際、 そこに「 戦う者」 という意味だけではなく、倫理性が存在する。明治時代の新渡戸稲造(1862-1933 年) も「 武士道」 を道徳としてとらえている。 だからこそ新渡戸の『 武士道』 は道徳の書であり、新渡戸は「 義」他の徳目によって武士道精神を解説するのである。 そうした倫理性を帯びた「武士道」がどのように成立したのか。 また現代社会においてはたして意味があるのか。またあるとしたらそれはどのようなものなのか考えていきたい。

「 戦う者」 としての武士から倫理性を内包した「 武士道精神」を持った武士に変容したのは江戸時代であるということは多くの人が認めるところであろう。

慶長8 年( 1603 年)、 徳川家康( 1543-1616 年) が征夷大将軍に任じられ、 江戸に幕府を開いてから、 慶応3 年( 1867 年)、 15 代将軍徳川慶喜( 1837-1913 年) が大政奉還を行うまでの江戸時代約 260 年間は他の時代に比較するとかなり安定した時代である。

もちろん、 この間、 大坂の陣( 1614-1615 年)、 島原の乱( 1637-1638 年) の大規模な戦役が勃発し、 武士を中心とした戦いの中、多くの人間が死に、人々は地獄さながらの悲惨な状況に直面した。 また、 幕末を中心に多くの暗殺事件もあった。 しかし、 下剋上が当たり前であった戦国時代と比較して武士の生き方が変わったのは確かである。 倫理性を帯びた「 武士道」 がどのように成立していったのか理解を深めていきたい。その端緒として、 戦前の日本国民にとって、日本人としてのあるべき姿を垂範し 、「 大和魂 」「 武士道」 の権化となった南北朝時代の武将楠木正成( 1294?-1336 年) を通して「 武士道」 について考えてみる。

楠木正成に見る武士道

小学生の頃の私は『 ウルトラマン』 シリーズや『仮面ライダー』 シリーズなどの特撮に夢中になっていたが、その後、 小学生向けの歴史上の人物の伝記を読んだり、N H K の大河ドラマを見たりして日本史に興味をもつようになった。中学生になった頃かと思うが、 少年少女向けの『太平記』 を読んだ。特に楠木正成の「千早城の奮戦」の箇所が印象に残った。ただ、楠木正成についての本を読んだり、 いろいろ考えたりするようになったのは成人してからである。 北畠顕家( 1318-1338 年) を主人公にした小説『 破軍の星』( 北方謙三作) を読んだ頃から南北朝および楠木正成に対する関心が強まった。 平成3 年( 1991 年) には足利尊氏を主人公としたN H K 大河ドラマ『 太平記』が放映され、南北朝および楠木正成関連の書籍が多数出版された。

楠木正成は元弘元年( 1331 年)、 後醍醐天皇( 1288-1339 年) による鎌倉幕府打倒のための挙兵( 元弘の乱) に応じて河内国赤坂城で挙兵し、 その後千早城に転戦した 。 そ の間、 鎌倉幕府側の武将、 足利 尊氏( 1305-1358 年 ) 、 新 田義貞 ( 1301-1338 年) らが倒幕の兵を挙げ、 元弘3 年( 1333 年) 鎌倉幕府は倒れた。 それにより後醍醐天皇の建武の新政が始まるが、 新政に対する武士の不満を背景とした足利尊氏が後醍醐政権と対立、 有力武将が次々と足利方につく中、楠木正成は最後まで後醍醐天皇側として戦い続ける。 そして、 建武3 年( 1336 年)九州から攻め上ってきた足利軍の大軍と摂津国湊川で戦い、『 太平記』 によると、最後は弟・政季(まさすえ) と刺し違えて自害したという。

有力武将が次々と足利方に寝返る中、 正成は後醍醐天皇を裏切ることなく最後まで戦った。正成はなぜ後醍醐天皇に対する忠誠を貫いたのか。

永仁2 年( 1294 年) に生まれたとされる楠木正成が歴史の表舞台に登場するのは前述の赤坂城挙兵( 1331 年) である。 湊川の戦い( 1336 年) で最期を遂げるまではわずか5 年ほどであり、その前半生はほとんどわかっていない。

正成はなぜ建武政権を離反しなかったのか。 もちろん、「 悪党」 と呼ばれていた名もない河内の土豪( 御家人説もあり) であった自分を河内・和泉の守護、河内守にまで引き立ててくれた後醍醐天皇に対する恩義があっただろう。しかし、 伝えられる正成の行動原理には後醍醐天皇に対する個人的な恩義だけでは説明しきれない部分がある。 正成の行動には宋学( 朱子学) の影響があるのではないかという見方も強い。

( 1 ) 楠木正成の前半生および朱子学(宋学)について

赤坂城挙兵以前の正成については幾つかの資料には出てくるものの、 わからない部分が多い。 ただ8 歳から 15 歳まで河内国観心寺において仏教および学問を学んだとされる。 その学問というのが南宋の朱熹( 1130-1200 年) によって構築された新たな儒学である朱子学( 宋学とも) だという説がある。

960 年建国された宋はその後、 女真族である金の南下により、 1127 年杭州に遷都した。 杭州遷都から 1279 年元による滅亡に至るまでを南宋といい、 朱子学は異民族である金や元の圧迫の中、 成立した。他民族によって領土を奪われる中、 宋王朝を正統とし、 君臣の秩序を守ることで異民族に立ち向かう根本理念になったのが尊皇攘夷思想であり、 大義名分論であった。もちろん、 朱子学は「 尊皇攘夷」 と「 大義名分」 にとどまるものではないが、多くの日本人が朱子学に見たの「 尊皇攘夷」 と「 大義名分」 であろう。 鎌倉時代には建長寺をはじめとする鎌倉五山でも朱子学が教授されていたというから、 鎌倉時代末、 観心寺においても朱子学が教授されていた可能性はある。

朱子学は、 物事の本質や道理を深く探究し、 それによって知識や学問を最大限に広げる「 格物致知」を説くとともに、 意を誠にし、心を正しくする「誠意

  • 正心」 を説き、 心のあり方を重視する。 そしてこの心のあり方は、「 修身・斉家・ 治国・ 平天下」 と、 外界に拡大するものとする。こうした内容をもつ朱子学を正成は学んでいたという 。( ただ小島毅氏( 東京大学大学院人文社会系研究科教授) は楠木正成が学問・ 教養を身につけた忠臣であるというイメージは江戸時代に朱子学的な倫理・論理で潤色されたものであると指摘している。)

( 2 ) 護良親王捕縛事件について

護良親王( 1308-1335 年) は後醍醐天皇の皇子であり、 皇族における鎌倉幕府打倒の最大の功労者である。 後醍醐天皇による元弘の乱に呼応して比叡山で挙兵し、 その後正成と連携を取りながら吉野に転戦し、 何度も死に直面しながら幕府滅亡まで戦い続けた。 幕府滅亡後征夷大将軍となり、 足利尊氏を建武政権の脅威と見て対立した。

護良親王と足利尊氏の対立は激化し、 建武元年( 1334 年)、 後醍醐天皇は義良親王( 1328-1368 年 後の後村上天皇) の生母である阿野廉子( 1339-1359 年) と足利尊氏の讒言を受け、 護良親王が皇位簒奪を企てたとして名和長年(? -1336年)、 結城親光(? -1336 年) らに命じて護良親王を捕縛させ、 なおかつその身柄を足利方に引き渡した。

このとき正成は北条残党の鎮圧を命じられ、 都を留守にしていた。これは正成が護良親王を守る動きに出ることを警戒しての措置だったのではないだろうか。 その後、 足利尊氏は護良親王を鎌倉にいる弟・ 足利直義( 1307-1352 年) のもとに送り、 直義は親王を8 か月もの間土牢に幽閉し、建武2 年、 中先代の乱の混乱の中、殺害する。

私はこの護良親王の捕縛・ 殺害こそが建武政権崩壊の始まりだったと思う。この後、 護良親王の兄である尊良親王(? -1337 年) は足利軍によって越前国金ヶ崎城で自害に追い込まれる。 また、 弟宮の恒良親王、成良親王は足利方に毒殺されたと『 太平記』 にはある。この皇族殺害こそが下剋上の戦国の世を現出させたと考える。そして、 この護良親王の捕縛が楠木正成の不在を狙って実行されたことが逆に楠木正成という武士の姿を浮かび上がらせる。正成は後醍醐天皇の信頼を得つつ、 また後醍醐天皇に恩義を感じつつも、決して建武政権に迎合するような武将ではなかった。

正成が足利方による護良親王の殺害を知ったとき、 どんな思いであったろうか。 鎌倉幕府に対してともに戦った盟友を喪った悲しみとともに、 これからの建武政権の行方に対して暗いものを感じたに違いない。そして、8 か月もの間、土牢に幽閉され、武器も持たず、戦う体力も奪われた親王を殺すことが武士にとって大切なものを崩壊させることを正成は感じていたかもしれない。 そしてその崩壊から大切なものを守るための乾坤一擲の戦いが湊川の戦いであったように思う。

( 3 ) 湊川の戦いについて

護良親王殺害後、 建武政権に反旗を翻した足利尊氏・直義兄弟は後醍醐天皇側の新田義貞軍を打ち破り、 京に攻め入る。 しかし、 後醍醐側には陸奥国多賀城から駆けつけた北畠顕家軍が加わり、正成らは足利軍を九州へ敗走させる。ところが、 建武3 年( 1336 年) 1 月、 足利尊氏は、 光厳院の院宣を得て、 建武政権に不満を抱く武将達を味方につけ、大宰府から京への進軍を開始する。 新田軍が播磨の赤松軍攻略に手間取っている間に足利軍は京に迫り、 後醍醐側は正成を河内から呼び、 対策を尋ねる。 その際、 正成は足利軍を京に誘い入れた上で補給路を断つ策を提案するが、 合戦を知らない公家の反対により、 その策は却下され、少ない軍勢で足利の大軍を迎え撃つこととなる。

この時点で後醍醐側から離反することも可能であった。 しかし、 正成はそれを選択しなかった。 足利軍を迎え撃てという命を受けた段階で正成は死を覚悟

したのだろうか。この後の湊川の戦いは、 それまでの赤坂・千早城の戦いや、足利軍を西国に敗走させた京での戦いとは完全に異なっている。多勢に無勢でありながら策を弄さず、足利の大軍に真っ向からぶつかっている。

『 太平記』 は湊川の戦いを正成が死を覚悟した戦いだとする。そうした文脈の中で正成と嫡男正行( まさつら)(? -1348 年) の桜井駅での別れが語られ、 弟正季との死が「 七生報国」(『 太平記』 では「 七生滅賊」) の言葉とともに語られてきた。はたして正成は何のために戦ったのか。その理由として「尊王攘夷」と「 大義名分」 を標榜する宋学イデオロギーを考えることもできる。しかし私はこの湊川における正成の戦いにイデオロギーとは異なる「武士道」を見る。

湊川での正成・正季兄弟の戦いぶりを『太平記』は次のように描く。

正季と正成と、七度会ひ七度別る。其の心偏に左馬頭(足利直義) に近づき、組んで討たんと思ふにあり。( 中略) 正成・ 正季また取つて返つてこの勢にかかり、 懸ては打違ひて死し、 懸入りては組んで落ち、 三時が間に十六度まで闘ひける(『 太平記』正成兄弟討死事)

『 太平記』 に描かれているのは真っ向から全力で足利直義を討とうする正成

  • 正季の姿である。( もちろん、 足利陸路軍の大将である直義を討つことが厳しい戦局を打開するための唯一の策であるが。)

これは個人的な感想であるが、湊川の戦いに向かう正成の胸中にあったのは足利直義による護良親王殺害という不義に対する言いようのない怒りだったのではないだろうか。 もはや戦う力のない親王を殺すことは武士の存在意義を否定する不義だと正成は感じていたのではないか。

そしてもう一つ正成の心にあったのは元弘3 年( 1333 年)、 九州博多においてわずか 70 名という小勢で鎌倉方と戦った菊池武時( 1292-1333 年) の姿ではなかったろうか 。( ただこれは3 0 年以上前に読んだ『 楠木正成 美しく生きた日本の武将』( 森田康之助著) を最近読み返していたところ、平田俊春氏の見解として紹介されていたので、 それが心の中に残っていたのだろう。) 鎌倉幕府滅亡後の論功行賞の場で正成は自らの功を誇らず、

「 元弘の忠烈、労功の輩これ多しといへどもいづれも身命を存する者なり、独り勅諚によりて一命を落とせる者は、 武時入道なり、 忠厚もつとも第一たるか」(『 菊池武朝( たけとも) 申状』)

と後醍醐天皇に言上したという。

湊川における正成の勝利を度外視したような戦いの理由は身命を賭して自らの言葉と行動を一致させようとする「 正」 と不義なるものに対するまっすぐな怒り、つまり「 直」の精神だったのではないか。私はそこに「 武士道」を見る。イデオロギーでもなく、政治も度外視して、 一人の人間、 一人の男として自らの言葉を貫き、不義なるものと戦うという武士として大切なものを守る戦いが、正成の湊川合戦だったのではないか。

( 4 ) 私にとっての「楠公精神」

湊川合戦から約3 6 0 年後、水戸黄門こと水戸藩2 代藩主徳川光圀(1628-1701年) は楠木正成を崇敬し、 水戸学において「 楠公精神」 が顕彰された。 それが幕末の尊王思想につながる。 そして、 戦前、 戦中において「大和魂」とともに

「楠公精神」 が称揚され、 特攻攻撃「 菊水作戦」等、 楠木正成由来の言葉が戦争推進の用語として多用された。(「 菊水」は楠木軍の旗印)

ところが戦後社会において「 楠公精神」 および楠木正成は「 悪しき戦前の象徴」 として否定されるようになった。 確かに戦前、「 楠公精神」 および「 大和魂」 は利用され、イデオロギーや戦争と結びついた。 その点を我々日本人は忘れてはならない。

ただ楠木正成という武士の生き方から感じる「 正」「 直」 という精神性は現代社会においても大切だと考える。 自らの利益のために立場の弱い人間をだましたり、 暴力をふるったりする事件が多発する現代において 、「 武く正しく、直」 である「 大和心 」、「 義」 を重んじる「 武士道」 精神が必要なのではないか。

一人の人間として、また、時代錯誤ではあるが、一人の男として「 正」と「直」の象徴としての「 大和魂 」「 楠公精神 」、 また「 義」 を重んじる「 武士道」 を私は大切にしたい。

おわりに

以前、京都右京区嵯峨にある寺院「 宝筐院( ほうきょういん)」を参詣した。宝筐院は室町幕府二代将軍足利義詮( よしあきら)( 1330-1367 年) の菩提寺であるが、 そこには義詮の墓と正成の嫡男正行(?-1348 年) の墓が並んでいた。 伝わる話によると、 四条畷の戦い( 1348 年) で足利方に討たれた正行の首級は宝筐院に葬られた。 その後、敵であった足利義詮は敬慕する楠木正行の傍らに埋葬してほしいと遺言し、その遺言に従って義詮は正行の墓の隣に葬られたという。

また、話は前後するが、 先述の足利寄りの『 梅松論』では正成の死について誠に賢才武力の勇士とはかやうな者を申すべきとて、 敵も味方も惜しまぬ人ぞなかりける

と記述している。

敵からも敬慕された正成、 正行父子は決して狭量の人ではない。 江戸時代、人々は「楠公精神」 に「大和魂」を見、楠木父子を「 武士道」 の体現者ととらえた。「 大和魂」 および「 武士道」 は決して他国、 他民族を差別・ 排除するような排他的イデオロギーではない。今後は江戸期における「 大和魂」「 武士道」について考えていきたい。

〈主な参考文献〉

『武士道』  新渡戸稲造  奈良本辰也訳  三笠書房

『武士道』  相良亨  講談社学術文庫

『楠木一族  上下』  永峯清成  新人物往来社

『楠木正成  美しく生きた日本の武将』              森田康之助  新人物往来社

『楠木正成のすべて』 佐藤和彦編  新人物往来社

『【史伝】楠木正成- 「 大義」に生きた武将の実像』           土橋治重  P H P

『国家はいかに「楠木正成」 を作ったのか 非常時日本の楠公崇拝』

谷田博幸  河出書房新社

『南北朝  日本史上初の全国的大乱の幕開け』             林屋辰三郎   朝日新書

『南北朝  恩讐の争乱』  加賀淳子  河出書房新社

『大和魂の精神史 本居宣長から三島由紀夫へ』           島内景二      ウェッジ

『展示される大和魂 〈国民精神の系譜〉』  森正人  新曜社

『日本倫理思想史( 四)』  和辻哲郎  岩波文庫

『手堀り日本史』 司馬遼太郎  文春文庫

『平田篤胤  交響する死者・ 生者・神々』 吉田麻子  平凡社新書

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